iDeCoの「60歳まで引き出せない」は本当にデメリットか――60代の貯蓄データが示す答え
iDeCo最大の欠点とされる「60歳まで引き出せない」。しかし60代の貯蓄額を見ると、その評価は逆転します。単身世帯の中央値は300万円、3割は貯蓄ゼロ。いつでも引き出せる制度では、多くの人が貯められていないのです。行動経済学の「コミットメント装置」から、この制約の意味を考えます。
iDeCoを紹介する記事には、必ずこう書いてあります。
「最大のデメリットは、原則60歳まで引き出せないこと」
たしかにそうです。住宅を買うときも、子どもの学費が必要なときも、失業したときも、iDeCoのお金には手をつけられません。
前回の記事でも、私はこれを「最大のリスク」と書きました。
👉 【年収別】iDeCoとNISA、どちらが得か――退職金2000万円で結論が変わる
ですが今回、60代の貯蓄額のデータを見て、考えを改める必要を感じました。
「引き出せない」ことは、多くの人にとって、むしろ最大のメリットかもしれないのです。
まず、30秒で結論から。
📌 30秒でわかる結論
📊 60代単身世帯の貯蓄、中央値は300万円
平均は1,364万円。平均と中央値が4.5倍も離れている
😰 60代単身の30.4%は貯蓄ゼロ
およそ3人に1人。いつでも引き出せる制度では、貯まっていない
📉 単身世帯は30代→50代の20年でたった+20万円
中央値100万円→120万円。働き盛りの20年でこれ
🧠 原因は意志の弱さではなく「現在バイアス」
人間の脳は、将来の利益より今の満足を過大に評価するようにできている
⛓️ だから「引き出せない」が効く
行動経済学でいうコミットメント装置。自分で自分を縛る仕組み
📈 証拠もある
縛りを組み込んだ米国の制度では、貯蓄率が3.5%→13.6%に上がった
💡 月5,000円でも30年続ければ約291万円
それだけで、60代単身の貯蓄中央値にほぼ並ぶ
順に見ていきます。
1. まず、60代のリアルを見てください
議論の前に、事実を確認します。
日本の60代が実際にいくら持っているのか。2025年の調査結果です。
📊 60代の金融資産(2025年調査・貯蓄ゼロ世帯を含む)
| 世帯 | 平均値 | 中央値 | 貯蓄ゼロの割合 |
|---|---|---|---|
| 単身世帯 | 1,364万円 | 300万円 | 30.4% |
| 二人以上世帯 | 2,683万円 | 1,400万円 | 12.8% |
出典:金融経済教育推進機構「家計の金融行動に関する世論調査(2025年)」。数値は公表値にもとづく概数です。
見るべきは平均値ではなく中央値です
ニュースでは「60代の平均貯蓄は2,000万円超」といった見出しをよく見ます。ですがこの平均値は、実態をほとんど表していません。
平均値と中央値の違い
→ 一部の富裕層が引き上げる
→ 実感に近い
60代単身世帯では、平均1,364万円に対し中央値300万円。4.5倍もの開きがあります。
一部の資産家と退職金の多い層が平均を押し上げ、大多数の実像を覆い隠しているのです。
そして、もっとも直視すべき数字はこれです。
60代単身世帯の30.4%が、貯蓄ゼロ。
およそ3人に1人が、老後の入口で金融資産を持っていません。
これは特別に浪費した人たちの話ではありません。多くはごく普通に働き、ごく普通に暮らしてきた人たちです。
いつから差がつくのか――年代別に見ると
さらに重要なのが、年代ごとの推移です。単身世帯の中央値を並べてみます。
📉 年代別・金融資産の中央値(貯蓄ゼロ世帯を含む)
| 年代 | 単身世帯 | 二人以上世帯 |
|---|---|---|
| 20代 | 37万円 | 125万円 |
| 30代 | 100万円 | 311万円 |
| 40代 | 100万円 | 500万円 |
| 50代 | 120万円 | 700万円 |
| 60代 | 300万円 | 1,400万円 |
単身世帯では20代〜50代を通じて約3割が金融資産を保有していません。数値は公表値にもとづく概数です。
単身世帯の欄を、もう一度見てください。
⚠️ 30代から50代までの20年間で、いくら増えたか
20年間で、たった+20万円
働き盛りの20年です。収入がいちばん多い時期でもあります。それでも、中央値はほとんど動いていません。
もしこの20年間、月5,000円を積み立てていたら——約164万円になっていました。中央値の伸び(20万円)の、およそ8倍です。
問題は「貯める余力がない」ことではない。 月5,000円ですら、いつでも引き出せる形では残らない、ということ。
2. なぜ貯まらないのか――意志が弱いからではない
ここで「自己責任だ」と切り捨てるのは簡単です。ですが行動経済学は、まったく違う説明をします。
原因は人間の脳の作りにあります。
現在バイアス
人は、将来の利益を実際より小さく感じ、今の満足を実際より大きく感じるようにできています。これを現在バイアスと呼びます。
🧠 現在バイアスの働き方
損なのに、多くの人が今もらうほうを選んでしまう
30年後の自分は、他人のように遠く感じられる
しかもこれは、知識で克服できるものではありません。「貯めたほうがいい」と分かっていても、脳の設計上そうなってしまうのです。
だから「意志を強く持て」というアドバイスは、ほとんど機能しません。構造が悪いのであって、人格の問題ではないからです。
そして重要なのは、普通の預金口座やNISAは、この弱点に対して無防備だということです。
いつでも引き出せる。だから、引き出してしまう。
3. 解決策:自分で自分を縛る「コミットメント装置」
では、どうすればいいのか。行動経済学が出した答えは、シンプルかつ強力です。
意志の力で我慢するのをやめ、そもそも我慢しなくていい仕組みを作る。
これをコミットメント装置(コミットメント・デバイス)と呼びます。
⛓️ 身近なコミットメント装置の例
🍰 お菓子を家に置かない
意志で我慢するのではなく、手が届かなくする
⏰ 目覚まし時計を部屋の反対側に置く
起きざるを得ない状況を作る
📵 スマホを別室で充電する
誘惑そのものを物理的に遠ざける
💰 財形貯蓄・自動積立
手取りに入る前に、天引きしてしまう
古典的な例として、よく引かれる話があります。
ギリシャ神話のオデュッセウスは、船乗りを惑わせる歌声で有名なセイレーンの海域を通るとき、自分の体を船のマストに縛りつけさせました。
歌を聞いても飛び込めないように。自分の意志を、あらかじめ無効化したわけです。
そして——
iDeCoの「60歳まで引き出せない」は、まさにこのマストです。
4. iDeCoは「わざと不便に」作られている
ここまで来ると、見え方が変わってきます。
iDeCoの引き出し制限は、設計ミスでも不親切でもありません。年金制度として、意図的にそう作られています。
同じ「引き出せない」を、2つの見方で
| 欠点として見ると | 装置として見ると | |
|---|---|---|
| 引き出せない | 急な出費に対応できない | 使ってしまう自分から守れる |
| やめられない | 柔軟性がない | 相場が下がっても続いてしまう |
| 自動で天引き | 手取りが減る | 最初からなかったことにできる |
とくに2行目に注目してください。
暴落したとき、多くの人は積立をやめてしまいます。ところがiDeCoは、やめようと思ってもすぐに引き出せません。結果として、いちばん安い時期に買い続けることになります。
これは以前の記事で見た通り、長期の資産形成では決定的に有利に働きます。
👉 失われた30年に毎月5万円を積立てたらいくらになったか――日本株シミュレーション
「心の会計」で、最初からなかったことにする
もうひとつ、地味ですが強力な効果があります。
人は同じお金でも、どの財布に入っているかで扱いを変えます。これを**メンタルアカウンティング(心の会計)**と呼びます。
🏷️ 同じ10万円でも、扱いが変わる
💳 普通預金の10万円 → 「使えるお金」として意識される
🔒 iDeCoの10万円 → そもそも自分のお金として数えなくなる
引き出せないと分かっていると、人はその口座を「無いもの」として生活を組み立てます。我慢している感覚すら消えるのです。
これは、意志の力を1ミリも使いません。仕組みが勝手にやってくれるのです。
5. 証拠:縛りを入れたら貯蓄率が4倍近くになった
「理屈は分かるが、本当に効果があるのか」——当然の疑問です。
有名な実証研究があります。行動経済学者リチャード・セイラーらが設計した「Save More Tomorrow(明日はもっと貯めよう)」という仕組みです。
📈 「Save More Tomorrow」の仕組みと結果
今の手取りは減らないので、心理的な抵抗が小さい
本人は何もしなくていい。やめる手続きをしない限り続く
4回の昇給を経ても、78%の人が続けていた
セイラー&ベナルチによる研究(2004年発表、1998年に実施)。数値は公表された概数です。
貯蓄率が約4倍になりました。参加者の意志が強くなったわけではありません。仕組みを変えただけです。
この考え方は今や広く採用され、アメリカでは法制度にも取り入れられています。
人を変えるより、仕組みを変えるほうが確実だった。
iDeCoの引き出し制限も、まったく同じ原理で働きます。
6. 数字で見る:それでも、たいした額にならないのでは?
「そうは言っても、月に少し積み立てたところで」——そう感じる方もいるはずです。
計算してみます。年3%で運用できたと仮定した場合です。
💰 続けた場合にできる金額(年3%と仮定)
| 毎月の積立 | 期間 | 拠出総額 | 最終額 |
|---|---|---|---|
| 5,000円 | 30年 | 180万円 | 約291万円 |
| 1.2万円 | 30年 | 432万円 | 約699万円 |
| 2.3万円 | 20年 | 552万円 | 約755万円 |
| 2.3万円 | 30年 | 828万円 | 約1,340万円 |
※税・手数料は考慮しない簡略計算です。運用成果を保証するものではありません。
ここで、最初のデータを思い出してください。60代単身世帯の貯蓄中央値は300万円でした。
🎯 月5,000円が、中央値に並ぶ
月5,000円を、ただ止めずに続けるだけ。それだけで、いまの60代のど真ん中に並びます。
そして月2.3万円なら約1,340万円。中央値の4.5倍です。
差を生んでいるのは、収入でも投資の腕でもありません。止めなかったかどうか、それだけです。
そして「止めない」を、意志ではなく制度に肩代わりさせるのがiDeCoなのです。
7. ただし、万能ではありません
ここまで良い面を書いてきましたが、前回の記事で挙げた注意点は消えていません。公平に並べておきます。
⚠️ 縛られることの代償
① 本当に必要なときにも使えない
住宅・教育・病気・失業。生活防衛資金を別に確保してからでなければ、この縛りは凶器になります
② 受取時のルールが変わりうる
途中で逃げられないまま、税制が不利に変わる可能性があります
③ そもそも所得税を払っていない人にはメリットが薄い
節税が主眼の制度なので、扶養内のパートなどでは効果が限定的です
つまり、こういう順番になります。
①生活防衛資金(現金) → ②NISA(引き出し自由) → ③iDeCo(縛りが効く分)
土台を作らずにiDeCoから始めるのは、マストに縛られる前に食料を捨てるようなものです。
👉 【年収別】iDeCoとNISA、どちらが得か――退職金2000万円で結論が変わる
8. iDeCoが向かない人へ――縛りは自分でも作れる
ここまで読んで、「自分にはiDeCoは合わない」と思った方もいるはずです。
それは正しい判断かもしれません。前章のとおり、iDeCoが不向きな人は確実にいます。
ですが、大事なのはiDeCoそのものではありません。「引き出しにくくする」という発想のほうです。これは、自分でも作れます。
🔧 自分で作れるコミットメント装置(縛りの強い順)
| 方法 | 縛りの強さ | 特徴 |
|---|---|---|
| iDeCo | 最強 | 60歳まで物理的に不可能 |
| 財形貯蓄・社内預金 | 強い | 給与天引き。手続きしないと引き出せない |
| NISAの自動積立 | 中 | 引き出せるが、売る手間がひと呼吸置かせる |
| 別口座に自動送金 | 弱い | 見えない場所に置くだけでも効果あり |
| 「余ったら貯める」 | ほぼゼロ | 余りません。データがそう言っています |
共通するコツは、ひとつだけです。
手取りに入る前に、引いてしまう。
心の会計の話を思い出してください。一度「使えるお金」として口座に入ってしまうと、人はそれを使える前提で生活を組み立てます。だから、入ってくる前に抜くのがいちばん強い。
そして最後の行——「余ったら貯める」——について、はっきり申し上げます。
年代別データが示していた通りです。30代から50代の20年間で、中央値は20万円しか増えませんでした。余ったら貯める方式は、事実として機能していません。
9. まとめ
- 60代単身世帯の貯蓄は中央値300万円、3割は貯蓄ゼロ。平均値(1,364万円)は実態を映していない
- 単身世帯の中央値は30代100万円 → 50代120万円。働き盛りの20年で+20万円しか増えていない
- 貯まらない原因は意志の弱さではなく、現在バイアスという脳の設計
- だから「いつでも引き出せる」制度は、この弱点に無防備
- iDeCoの引き出し制限は、行動経済学でいうコミットメント装置として働く
- 縛りを組み込んだ米国の仕組みでは、貯蓄率が**3.5%→13.6%**に上がった
- 月5,000円×30年で約291万円。止めないだけで、60代の中央値に並ぶ
「60歳まで引き出せない」は、たしかに不便です。その不便さで困る人も、実際にいます。
ですが——
その不便さは、30年後の自分を、今日の自分から守るためにある。
投資の情報を集めていると、利回りや商品選びの話ばかりが目につきます。ですが60代のデータが示しているのは、もっと手前の現実です。
多くの人は、そもそも資産形成を「続けられていない」。
だとすれば、私たちが本当に必要としているのは、より良い商品ではなく、やめられない仕組みのほうかもしれません。
セイレーンの歌は、必ず聞こえてきます。問題は、そのときマストに縛られているかどうかです。
出典・参考資料
貯蓄額のデータ
- 金融経済教育推進機構(J-FLEC)「家計の金融行動に関する世論調査(2025年)」 60代および年代別の金融資産保有額(平均値・中央値)、金融資産非保有世帯の割合 調査ページ(知るぽると) ※本記事の数値は、同調査の公表値をまとめた資料を参照した概数です
行動経済学の研究
- Richard H. Thaler & Shlomo Benartzi「Save More Tomorrow™: Using Behavioral Economics to Increase Employee Saving」Journal of Political Economy, Vol.112, No.S1(2004年) 貯蓄率が3.5%→13.6%に上昇した実証結果 論文ページ
制度に関する情報
- iDeCo公式サイト(国民年金基金連合会)「iDeCoの概要」 https://www.ideco-koushiki.jp/
※現在バイアス、コミットメント装置、メンタルアカウンティング(心の会計)は、行動経済学における一般的な概念として記述しています。
本記事は制度および行動経済学の一般的な解説であり、税務・投資に関する個別の助言ではありません。統計数値は公表資料にもとづく概数であり、調査年により変動します。シミュレーションは一定の利回りを仮定した簡略計算で、税・手数料は考慮しておらず、将来の運用成果を保証するものではありません。iDeCoの制度内容・税制は将来変更される可能性があります。実際の判断にあたっては公式情報をご確認のうえ、必要に応じて専門家にご相談ください。投資には元本割れリスクがあります。